京都 〜私的趣好寺院図鑑〜


                                                                             
                                                                             

翌日も市バスに乗って移動。千本通を北上して北大路に入ってすぐ、洛北の名刹、大徳寺にやってきた。

拝観開始とほぼ同時刻にやってきたため、敷地内にはまだ人も少ない。

昨晩降ったと思われる雨で、石畳はしっとり濡れていた。
その趣がまた格別だった。

ミニマムな日本的スケール感に溢れた小粋なシーンが楽しめる寺院として、多くの京の寺院の中でも僕が最も気に入っているのが、この大徳寺なのだ。

 
                                                               

まずは山門に行く。
建物そのものには近づけないものの、敷地内から拝観するのに料金は不要。

朱色も鮮やかなこの山門は、応仁の乱後の再建。
最初は小さな草庵から始まった大徳寺は、南北朝双方の支持を受けて繁栄したが、応仁の乱で荒廃。それを「一休さん」こと一休宗純が復興したが、山門は一層目を建築したところで中断していた。

二層目を継ぎ足すために尽力したのが千利休。彼の木像がこの門に安置されたのが秀吉の逆鱗に触れて、利休は命を縮めた、ということになっている。

 
山門の他にも本堂とかが並んでいるけど、大徳寺は本体の建物そのものよりも、周囲に集積している「塔頭」に見所が多い。

大徳寺は臨済宗の寺、すなわち禅寺であり、数々の高僧を輩出してきた。
室町時代以降、諸大名や有力な商人たちが禅僧と結びつきを深め、彼らを祀る塔所として建立し、自家の菩提寺としたのが大徳寺の塔頭である。

現在大徳寺には22もの塔頭があって、一大寺院群を形成している。それだけでひとつの町になってるかのよう。塔頭の建立者には、豊臣秀吉、石田三成、大友宗麟、前田利家の妻まつ等の有名人が名を連ねている。
当時、大徳寺にはそれだけ強大な影響力があったのだろう。

             
                                                             

そんな注目に値する塔頭の数々なのだが、残念ながら一般拝観が可能なのは全部で4カ所のみ。
そのうちのひとつ、大仙院をまずは拝観することにした。

方丈と、その前庭としての枯山水庭園が有名な大徳寺塔頭の中でも代表格である大仙院。

方丈は室町時代の建築で、禅寺方丈として最古のもの。長く深い軒下の広縁による、内とも外ともつかない中間領域。それをとりまく名庭の数々。見所は多い。

 
                                                             

楽しみにしていたのだが、なんとあいにく方丈の維持保存工事中で、拝観はできるものの、庭園を仮設足場越しに見なければならないという状況だった。。

足場越しに見た方丈前庭は、流れを模しただだっ広い白砂の中に、たった一対の盛り砂があるだけという構成。その名も「大海」。シンプルな空間構成の中に無限の広がりを見る。(足場越しでは少々興醒めではあるが・・)

方丈の周囲は全て縁になっていて、それぞれ庭園に面している。大海ほど大きな庭ではないが、石や植物が配置され、それぞれに意味のある抽象風景を形成している。
実は最初に見た大海が、その他の庭に続く最後の風景であり、大海の前に山があって滝があって川があって、最終的に海にたどり着く、そんな一連の風景を、方丈の四周で構成しているのである。

そう見るのは比較的簡単だけど、この庭、室町期の禅寺の枯山水庭園の最高峰と言われるくらい、いろんな要素が含まれている。僕の中途半端な知識と眼力では、到底読み解けるものではなかった。
大変な重みのある、そして味わいのある庭だ。来る度に新しい発見ができるような気がする。

中身が濃いゆえ消化不良だったが、感性を揺るがす何かを感じたので、売店で手頃な写真集を買い求める。
大仙院は撮影禁止だったから、というのもあるけれど。

                                                             
                                                             

2つ目に瑞峯院という塔頭にやってきた。
最初は、拝観するのは大仙院ともうひとつくらいでいいかなぁと思ってたけど、大仙院は良かったし、大徳寺敷地内の雰囲気も凄く良い感じだし、せっかくだから見られる所は全部見とこう、っていう気になってきた。

さて、瑞峯院とは、九州のキリシンタン大名、大友宗麟が建立した塔頭だ。

大徳寺の塔頭は、玄関までの動線の設えが楽しい。
独特の石畳の意匠は、大徳寺塔頭ならではのもの。領域の仕切り方、スケール感は、大徳寺という寺町に共通している。

 
             
 
 

方丈庭園は、大仙院に比べて波立ち方がダイナミック(笑
この枯山水の表すところは、蓬莱山の裾の半島に打ち寄せる波だとか。。

あながち僕の解釈も見当違いではないようだ。

面する方丈の縁は、やっぱり広い。軒の出方が豪快だ。
そう言えば、どこの方丈でも広縁は大概日当りが良く、寒い真冬の京都の中にあって、広縁に座っている時は別次元の心地良さだった。長い年月を経てきた無垢の床板が蓄熱し、温もりを与えてくれるのだろう。

縁は2段もしくは3段で構成され、足下には斜め45度に振ったパターンの石畳、白砂との見切りには白御影の縁石と、この辺りは文法通りでどこの方丈に行っても共通していた。

   
                                   
                                   

3つ目、龍源院。
いきなり方丈庭園の写真だが、実際は拝観入り口から書院を経て方丈に至っている。

禅宗寺院は、アプローチから玄関の門をくぐると、いきなりこの庭園の側面に出る構成になっている(左の写真で言うと左下が玄関、右下が方丈の広縁)

玄関を開け放っている塔頭は無い。本来のアプローチから逸れて、関係者入り口のようなサブ玄関から出入りするようになっている。
玄関の門はフォーマルな用途で、限られた来客者に開け放たれたのだろうか。

方丈南庭は「一枝坦」と呼ばれる。
手前が亀、右手奥が鶴、中央奥が仙人の住む蓬莱山と、めでたい枯山水である。土塀も新しく、スッキリしていると思ったら、先代の住職による昭和の作庭だった。

龍源院でイチバン気になったのがコレ。
方丈の襖に描かれた龍の図だ。作者年代とも不詳らしい。
モノトーンの墨絵だからこその迫力か。

そう言えば方丈の内部は、必ずと言っていいほど天井が高く、長押から上は開口になっている。
襖を閉めていても、ほとんど一体の空間に感じられる。(寒そうだなぁ)

 
           

方丈と庫裏の間のわずかな空間にも枯山水庭園が設えてあった。
なんでもこれが日本最小の枯山水庭園だとか。

これを見た瞬間、以前ここに訪れた際の時の記憶が蘇ってきた。
札幌からEG4で訪れた時のこと・・・あれからあんなにも時間が経ってしまったんだ。。

深遠なる砂の輪と、止まることの無い時の流れを重ね合わせ・・・・

           
                                     

ラストは、大徳寺塔頭で構成される寺町の西の端にある高桐院だ。
ここまでゆるりゆるりと拝観を楽しんでいるので、大徳寺で午前中を使い切ってしまいそうな勢いだ。
まぁそれもいいかな。やっぱり大徳寺はイイ。この空気感、スケール感が堪らないね。

   
                                   
         

さて高桐院。
出迎えてくれるのは、こんなカンジ↑のアプローチ・・・

直角に曲がって門を潜り、またすぐに今度は右に折れる。
なんだろう?この極めて繊細な空間美は・・・

                         

右に折れた時に現れた目の前の風景に、思わず立ち尽くしてしまった。。。意図せず漏れてしまう溜息・・・

美しい。。。
そんな月並みな言葉でしか表現できない自分が腹立たしいが、まったく表現する言葉が見つからないのだ。

絶妙の遠近感は、大徳寺の塔頭群に共通する独特のスケール感から来るもの。その最たる空間が、この高桐院のアプローチかもしれない。。

じっとりとした重みのある影の空間美は、実に日本的でありながら、一方でモダンな印象さえ感じられる。
繊細なディテールは研ぎ澄まされた精神性を表しているにもかかわらず、季節による景色の移ろいも考慮されて、見る者を視覚的に魅了するであろうことも想像できる。

アプローチでコレだから、きっと何か凄いものがあるに違いないぞ、高桐院には・・・

         
 
                           
 

高桐院は、細川ガラシャの夫、細川忠興が建立した塔頭だ。ホント当時の時代の武将は、競って塔頭を建てたんだなぁ。

建物に入ると、何となく今までとは異質な雰囲気。。

                                                     

高桐院は拝観できるエリアが何だか広い。
特に順路もないので適当に歩く。

建物の外は当然庭のようだが、これまでみたいに整然とした枯山水のような庭園があるわけではなく、緑の生い茂った密度の濃い庭が取り巻いているようである。

上の写真の、およそ禅寺らしくない建物の内部の部屋が右の写真。
たぶんこれが書院と呼ばれている建物であり、もともと利休邸だったのをここに移築したものだそうな。

 
                                                     
 

その書院の先に、小さな茶室が繋がっていた。

これがたぶん(さっきからたぶんと言ってるのは、案内を真剣に見てなかったから(汗)「松向軒」。たった二畳足らずのミニマム空間。

書院と繋がっているので、ちょっと不自然な感じがしないでもないが、禅とは切っても切りはなせない茶の湯の空間が、こんな所で体感できるとは思っていなかった。

大徳寺は「茶人面」と形容されることもあったくらい、茶の湯と深い関係がある。

茶の湯の祖である村田珠光は一休宗純に帰依していたし、侘び茶を生み出した武野紹鴎やその弟子の千利休は大徳寺で禅修行に励んだ。

いつしか禅と茶は、その精神性からしても一体と見なされ、その精神の根底を培う場として、大徳寺はいつの時代もあったのだ。(たぶん現在も)

その大徳寺の塔頭のひとつで茶室を体感することができたことが嬉しい。

         
実際は中まで入ることはできないのだが、それでも二畳足らずの侘び茶の空間を体感できる経験はそうそう無いことである。
この小さな宇宙には様々なエッセンスが取り込まれていて、数寄屋建築に繋がる多大なヒントとしても非常に興味深いのだ。
         
         
書院と庫裏を挟んで大きな建物があるが、これがたぶん客殿。他の塔頭で方丈にあたるのがこの建物なのかな。天井は高いし、長押の上は開口だし、広縁がついていてその先には庭がある。
けれど住職の住居ないしは本堂のような飾り気の無い質素さは無く、ある程度は座敷っぽい設えが見られる。
         
         

客間から広縁越しに庭園を眺める。これまでの塔頭は方丈内部に入ることができなかったので、こういう構図で庭園を見るのは初めてである。

高桐院の庭園は枯山水ではなかった。一面苔に覆われたタイプの庭園。枯山水ほどの抽象性は無く、なんだか安心して見られる(笑
竹林を背景に、庭園の木々が幕を作り、黄緑色の平面に灯籠がひとつ。抽象性は無いと言ったが、凛とした精神性はしっかりと感じられる。
拝観用の赤い絨毯が無ければもっといいのに。

庭園も散策できるが、前庭以外は結構鬱蒼としているので、内部中心に見れればいいかなってカンジ。

         

高桐院は、他の塔頭とはかなり趣が異質だった。程良く外しの利いた居心地の良さみたいなものがある。あんまり禅寺の堅苦しさが感じられないのだ。

かと言って禅寺としての魅力が薄いわけではない。
想像だけど、ここは季節によって劇的にその表情が変わりそうな雰囲気がある。

特に最初のアプローチ空間には、季節の移ろいを取り込んだデザインというニオイがプンプンする。
是非季節を変えて、もう一度味わいたいと思った。

     
                                                                             
 

以上で大徳寺の塔頭鑑賞は終了。まだ多数の塔頭があるが、後は全部非公開ゆえ。。
拝観ができない塔頭の中にも、魅力的な塔頭がいくつかある。特に小堀遠州が自らの菩提寺として自ら設計した狐蓬庵は、是非じっくりと味わってみたいと思っているのだが。。

いずれにせよ、やはり大徳寺は格別である。
ちょうどいいスケールの寺である塔頭の趣と、それらが密集することによって生み出される敷地内の寺町のような雰囲気が、僕は大好きなのだ。久しぶりに訪れて、その想いを更に強くした。

また来るぞ。

 
                                                                             

洛北の大寺院の後は、比叡山の麓にある小さな寺院を楽しむべく再びバスに乗る。
ここらにきてようやくバス網に慣れてきたものの、目的のバス停は均一区間外だった。市街のあるエリア外に出ると距離別に切り替わるのだが、ややこしい以外の何者でもない。まぁ僕がバスに乗り馴れてないっつーのもありますが・・・(外国人観光客がこんなの理解できんのか?)

                                                                             
                                                                             

一乗寺下り松町バス停から、上り坂をそこそこ歩いた後に辿り着くのが詩仙堂。
詩仙堂という名称は通称で、正式には「凹凸か(「か」は「穴」の下に「果」)」。「おうとつか」と読む。デコボコの場所に建てた家、という意味らしい。

なかなか洒落た名称だが、そんな山荘を建てたのは、江戸時代初期きっての文人、石川丈山である。
石川丈山は半生をこの詩仙堂で、清貧と風流をモットーに過ごしたそうだ。

 
                                                           
 

詩仙堂という名の由来は、この建物の中にある「詩仙の間」から来ているとのこと。
詩仙の間の、四方の長押上部の壁には、百人一首のような絵と文字が描かれた色紙が並んでいる。

これは漢詩の大家でもあった石川丈山が、中国の詩人を36人選び出して、当時の天才絵師、狩野探幽に絵を描かせて、それぞれに自ら各詩人の詩を書いたもの。(最初は本当に百人一首かと思った)

ちゃんと当時のまま残されていて風流だが、撮影禁止なので写真は無いです。

                                                           
   
   

庭に面する座敷と縁側は開け放たれていて、すっごい開放的。重い瓦屋根を支えていることを考えると、華奢過ぎなんじゃないかと思えるほど。

欄間には小さいながらも障子がはめ込んであったり、軒樋が竹だったり、建物の造りもどことなく風流。

 
                                                                   

庭は思いのほか広く、段々状にいくつもの庭が積層しているカンジだ。

庭から建物を振り返ると、これまで見てきた立派な寺院とは全く異なる隠れ家的山荘の趣を感じ取ることができる。

丈山の時代からほぼそのままの形を保ったまま残っているそうだ。

 
武人として戦功を挙げた丈山が、人生半ばにしてなぜこの隠れ家に引きこもったのか。興味は尽きないところである。
 
 
      詩仙堂からアップダウンのある路を歩くこと約15分、今度は曼殊院にやってきた。
門には「曼殊院門跡」とある。門跡とは、皇族や貴族の子弟が出家して住職になった寺のことらしい。
             

早速、書院へ。

曼殊院の建築は、数寄屋風の書院造。床の間や違い棚といった文法通りの形式が見られる一方、そのディテールには自由奔放な遊び心による味付けがなされているように見える。

 
             
   
               
 

←大書院「十雪の間」

床の間と違い棚が決定付ける空間のプロポーション。どこか暖かみのある色使い。斬新な発想の欄間のデザイン。数寄屋の面白さが詰まっている。

 
大書院の広縁に出る。赤いのは絨毯なので差し引いて考えてもらうとして、これまで見てきた寺院建築と決定的に違うのは、その軽快感。
門跡ではあるけど、どちらかと言えば住宅的。書院造ではあるけれど、かなり数寄屋風。その結果、どこか身近な和風住宅のような趣がある。
     

しかし庭園は枯山水だ。禅寺のような厳かな抽象世界ほどではないものの、形式をくだいた建築物と比べると、いささか緊張気味の風景。
ただ、それが曼殊院をただの住居風建築とは一線を引いているような気もする。

曼殊院の書院は、良尚法親王という人物が造営に携わっている。元々御所の北側にあった曼殊院を今の位置に移し、建築、庭園ともに自身の識見を注ぎ込んでいる。

     

この良尚法親王という人がミソで、あの桂離宮を造営した八条宮智仁親王の息子なのである。

父が造った数寄屋建築の傑作を肌で感じていた息子が造ったのが曼殊院。桂離宮のエッセンスが含まれていて当然と言えば当然かも。

その証拠に先程の十雪の間の違い棚は、桂離宮と同じ様式と材料で造られている。

     

また、上の写真の小書院に見られるような柿葺きの屋根、大書院と小書院が雁行するプランなど、共通点をいくつも発見することができるのだ。

これ以外にも茶室の八窓軒(非公開)、狩野探幽の障壁画、国宝の黄不動像(掛け軸)と古今和歌集(曼殊院本)等、非常に見所が多い。
失敗したのは、実はほとんど下調べ無しに来てしまったこと。曼殊院に関しては、後から復習して知ったことがほとんどだった。。

僕は先入観を持ってモノを見るのがイヤなので、あんまり綿密に下調べをする方ではない。ただ、主な見所くらいは抑えておかないと、拝観できるエリアが広かったりすると、そんなのあったっけ?ってことになってしまうことも。
曼殊院はちょっとそういうワナ(!?)にハマってしまったのが後にわかって、やや心残りになってしまった。

ここは初夏のツツジや紅葉の庭園風景が素晴らしいらしいので、再訪問する価値はありそう。宿題ができてしまった。

         

曼殊院から音羽川沿いに麓に降りていく。
詩仙堂と曼殊院はバス通りからも距離があって坂道も続く。どちらも人は少なく駐車場もあったので、正直エスで来ればよかったと後悔した。

まだ14時前で時間はあったが、あまり多くの寺院を見過ぎるのも、個々の印象を薄くしてしまうような気がしたし、京都の街も散策してみたいという気持ちもあったので、まだ早いけど本日の寺院巡りはお開きとすることに。

         
 

バスで戻ろうかと思ったけど、修学院駅が近かったので叡電に乗ることにした。

駅には実にオープンな自動改札機が・・・
切符の自動販売機が改札の奥にあるぞ(笑

市電のような小さな電車に揺られて出町柳まで。
出町柳は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になる地点。
今出川通の賀茂大橋から水辺の風景を眺めた。

 
     
賀茂大橋横にあった旧い銀行の建物をリノベーションしたカフェで遅いランチを頂く。
その後、今出川河原町からバスに乗って三条まで。
中京の三条通界隈は、大通りの四条や五条とは違って、昔ながらの問屋風情の店や町家が佇む京都らしい町並みが残る。
特に目的はないけど、ぶらりと歩いてみる。
 
三条通商店街から寺町通商店街にかけては、河原町の混雑をそのまま引き込んだかのようにかなりの人出だった。
寺町通の鳩居堂は、和紙やお香を扱う老舗の文具店。こういう店の存在こそ、京都ならではの魅力だ。
   
   
 

寺町通から二本西側の通りが麸屋町通。秀吉の京都整備以降、豆腐や麩を扱う商人が多数住んでいたことからついた通り名だそうだ。
碁盤目状の京都の街の通りにはどんなに細い路地でも大抵名前が付いている。風流だよなぁ。

その麸屋町通には、京都きっての老舗旅館の両雄、俵屋と柊屋が軒を対峙させている。
ほとんど塀に囲まれていて、玄関だってその塀にちょこんとついているくらいなもの。この辺が脈々と受け継がれてきた京の街並に対する美的センスだろう。

これ見よがしな大きさや豪華さでステータスを誇示するような無粋さはひとかけらも無い。
京に溢れる控えめの美学は、日本文化としてもっと見直されてもいいと思う。

   
   

この界隈の街並みは本当に面白い。歴史を背景にしたオーセンティックな佇まいの商店と建築が、今日もごく普通に軒を連ねて営業しているのである。
当然ながら昔はもっと色濃い商店街や問屋街の風景であったに違いないが、21世紀になってもこれだけ街並みに活気があり、懐古趣味に偏り過ぎないで存在し続けているということに感銘を覚える。

それに加えて、ずっと前に訪問した頃から比べると、古い町家を利用したブティックやアンティークショップ等が増えているような気がする。エココンシャスな世の中になって、古いモノに対して多くの人がオシャレに感じるようになってきている証拠だろう。
あまりにそういったモノばかりになってしまうのも発展性が無いが、既存財産を活用しての歴史的な街並みの維持という意味では非常に心強い。

街並みを楽しみながら、碁盤目状の路地を縦横無尽に歩き続ける。
特にショッピングするつもりは無かったが、ただひとつ、憧れのイノダコーヒー本店で、赤い缶に詰まったコーヒー豆を買った。(京都人かぶれを楽しむために)

   
   

夕方近くになってきた頃、薄暗くなりかけた先斗町を歩いてみたくなり、河原町通と木屋町通を横断して鴨川沿いの茶屋街へと足を運んだ。

先斗町に出たのが歌舞練場の前だった。
夕刻の先斗町は、明かりが灯るか灯らないかの微妙な時間で、何か落ち着かない、そわそわした空気に包まれている。
幅にして人の背丈分あるかないかの極細の路地に茶屋がひしめき合った状態は、この通りでしか感じることのできない特異な空間。普段感じることのできない空間性に、気持ちが高揚してくる。

           
                                                 
 

先斗町を歩き始めた頃までは期待感でいっぱいだったが、途中から、アレレなんかおかしいぞ、になっていく。

異常なまでの人混み。まぁそれは正月だし有名な観光スポットだしある程度当然だとして、並んでいる店が普通の飲み屋のような、およそ茶屋街とは関係ない雰囲気の店で通りが覆われているのだ。

先斗町ってこんなだったっけなぁ?

もちろん昔ながらの淑やかな面構えの店もあるにはあるのだが、どうにも先斗町のイメージとはかけ離れた店も多い。中には行列を作っている店もある。

先斗町というネームバリューが一人歩きして、その粋な街並みとは趣を異とした佇まいの店に浸食されているような気がした。

そのうちただの飲屋街になってしまうのだろうか。。(京都の人が、その方が新しいというなら別だけど・・・)

   
             
          やっぱりこういうのが先斗町らしいと思うのだ。
                   

そんな荒れつつある(!??)先斗町の新興店はどんなものかと、夕食がてら覗いてみることにしたが、どこも既に満席か予約で一杯。
本当にいい店なのか、実は昔からあるのか、それとも場所が先斗町だからっていうだけなのか、遂に判別することは叶わず。

本日も四条界隈で晩飯というのもどうかなと思ったので、軽いリサーチでチェックしておいた店に行くことにする。場所は七条。バスだ!

しかしこの時間に三条河原町から烏丸七条までバスに乗るということは、忍耐を試すようなものである。少なくともバス嫌いの僕にとっては。

・・やや大袈裟だが、やっぱり混んでいた。駅前のロウソク(京都タワー)が見えてきた頃には、駅周辺は動かないから手前で降りることをオススメします、という若い運転手の指示が飛ぶ。

そうでなくとも七条で降りるつもりだったから降車。
東本願寺は暗闇で全く見えなかった。

   

目的の店は町家を改修したというだけで選んだ店だった。

住居である町家は、公開でもされてない限り、建物を体感することはできない。京町家にも当然惹かれる想いはある。ならば堂々と飲食店で体感、と思ったけど、中に入ってみれば普通に長細いだけの居酒屋だった。(まぁセンスはよろしいですけど)

味もかなり微妙・・・。
熱いまま出てきてほしいものがイマイチぬるかったり、ちょっと配慮が足りなさ過ぎる。カウンターに調理台があるのに、全員裏に引っ込んだままで必要なときしか出て来ないし。

先斗町の町家の新興店も、こんなだったら悲しい。

                         
                                                                           
    今回の京都の旅の最後の夜だったのに、かなり不完全燃焼。
ま、食い気が無いいつもの旅よりは、全然彩り華やかだけどね。
   
                                                                           
2日目 / 4日目
                                                                           
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