京都 〜私的趣好寺院図鑑〜


                                                                 
次の日、最初に訪れる予定の寺院の拝観開始時間に合わせて出発。
この日の足はバス。エスは宿の駐車場でお留守番。
さすがに京都市内をクルマで回り切るには限度がある。効率良く楽しむ意味で、クルマという絶対手段を今回ばかりは封印するのだ。

一日乗車券を片手に市バスで向かった先は、代表的な密教建築が残る大寺院、東寺だ。
                                                                 
                                                                 

東寺は、京都駅の南西に位置する。
シンボルは五重塔。日本で一番高さのある立派な五重塔だ。

その五重塔はさておき、まずは南大門から境内に入る。南大門の重厚さにも驚くが、門の先に控える建築群の巨大さには圧倒された。

   
               
                                                 
   

南大門を潜って正面にあるのが金堂。
豪快無双、これぞ桃山建築、ていうような迫力に満ちたファサードである。

そんな派手な立体構成が示す通り、金堂は桃山時代の再建である。しかし金堂という建物の存在そのものは、当然ながら更に昔からこの地にあった。

東寺は平安京造営時に、羅城門の東西に配置された守護寺の内のひとつが起源だけど、本格的に寺として機能するのはご存知弘法大師こと空海が、嵯峨天皇より賜わって入寺になってからと言われている。
以後、真言密教の中枢となり、教王護国寺と称して創建当時から位置を変えないまま現在に至っているそうだ。

建物は応仁の乱さえも免れたのに、その後の土一揆で消失し、その後に立て直されたものが多いから、こんな時代の意匠になっているというわけだ。

                                                                 
                                                                 

金堂の前には当時名物の露天が開店準備をしていた。
金堂の背後には講堂があり、南大門から一直線に並ぶ配置。どれも逸脱したスケール感とも言えなくもない大柄なものだが、建物の周囲から眺めるだけで内部には入れない。

・・・と思ってたら、有料拝観ゾーンから建物内部に入ることができた。
撮影不可だったので、言葉だけの説明で済ませると、金堂内の薬師三尊、講堂内の立体曼荼羅、どちらも必見に値すると思う。

さぁさぁ、そしてお待ちかね(!?)の五重塔である。

高さ55mの塔は、木造多重塔として日本一の高さ。いま目の前にあるのは空海の頃から数えて五代目で、徳川家光の再建だそうだ。

けれども基本的な骨格は、創建当時と変わらず。
4回も立て替えているのは、どれも火災による消失。塔の高さは、都の建築物の中でも群を抜いていたといい、それだけに落雷が多くて、それで短命なのは致し方無しといったところか。(現在はゴッツイ避雷針が入っていると思われる)

実はこの立て替え理由がミソで、この五重塔、火災が原因というのはあっても、地震で倒壊したという記録は一切無いのである。長い年月、幾度か大きな地震に見舞われているにも関わらずである。

これはこの五重塔独特の構造形式によるものであり、構造体とは関係の無い独立した心柱を中心に、各層が木材の継手仕口で積層している。
地震の揺れに対しても、基礎を支点に振動するのではなく、横から見た際あたかもS字を描くように振動して、地震エネルギーを自ら吸収してしまう。

・・・と考えられている。(と記憶している)
古代から伝わる日本の建築技術の凄さを十二分に物語っているのが東寺の五重塔なのだ。

   

その五重塔は、通常外から眺めるしかできないのだが、当日は正月三が日ということで、特別に最下層を解放していた。ラッキー。

最下層、つまり塔の初重には、塔の構造体や壁も含めてきらびやかな装飾が施されている。(当然剥げかけているが)
正方形の室内の中央にそびえ立つ心柱を中心に、周囲に金剛界四仏と八大菩薩、構造体である4本の柱には金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。
この内部装飾全てで、密教世界の教えを表しているそうだ。ふふーむ。。

               
内部ではボランティアなのかバイトなのか、フツーのお兄ちゃんが心柱を棒読みで説明していた。
まだ拝観は始まったばかりだというのに寒さに震えて鼻水じゅるじゅるで、この人今日一日果たしてもつのか、説明内容よりそっちを心配をしてしまった。
               
 

とまぁ他にもいろいろあるけど、ひとまず東寺はここまで。今日の行程で行きたいところはまだたくさんあるし。

それはそうと五重塔って、現代の京都の街並みと重ね合わせたミスマッチな風景が、なぜか心に響くんだよなぁ。
時間の流れに取り残された空間が、そこには存在しているような気がして。

東寺の五重塔が目に入ると、あぁ京都に来たなぁと感じるのは、僕だけじゃないハズだ。

                     
                   
 

再びバスで九条通を直進し、今度は東福寺を目指す。

京都のバス停のこの表示は便利。だけど、もうちょっとというところからがなかなか来ないと思うのは僕だけか!?

     
                                       
       
                                 
     

朝のバス車内は、まだ乗客もまばら。

普段バスに乗り馴れてない上、複雑怪奇な京都のバス網。乗ってる間もちゃんと着くのか気が気で無い小心者のワタシ(笑
よく外国人観光客がこんなん乗るよなぁ。
(ある意味ガイジンかオレも(笑)

 
                                                           
                                                           
                                                           
東福寺バス停を降りても、そこはまだ東福寺の面影すら無い所だった。
それでも寺に向かって歩いていくと、東福寺の塔頭らしい寺院密集地の中に入り込んでいく。
それぞれの門構えは小柄だけど、その数に東福寺という寺院の規模を伺い知ることができた。
                                                             
 

駐車場を過ぎると、目の前に木造の屋根のかかった橋が目に入ってくる。

こんな街中に高低差のある小川が流れてるんだなぁと思いつつ目を上げると、橋の向こう側には更に立派な木造橋が架かっているではないか。

これが東福寺名物「通天橋」だ。突如として現れる渓谷「洗玉澗」に架かる、寺院の中では渡り廊下的な用途の橋。
紅葉時期の景観が有名なスポットだ。

                                                             
                                                             
 

通天橋の眺めはこの季節ではイマイチだったが、寺の玄関たる三門は季節を問わず、その威容を楽しめるようだった。
三門は室町時代の建築で、禅宗寺院の三門としては最古にして最大。門としては最も格式の高い二重構造で、各階に屋根が付いている。柱の上部に挿肘木が何重にも積層しているのがアクセント。

巨大な三門にしては、多少華奢な印象を受けたのはなぜだろう。
存在の迫力はあるものの 、重厚感という意味では今ひとつかも。。
そう思わせる要素として、四隅の屋根の跳ね出し部分に、不自然に柱が差し込んであるのに気付く。
これは最初から付いていたものではなく、地震で被害を受けた三門を補強するために入れたもの。
これをやったのが豊臣秀吉で、この柱のことを「太閤柱」と呼ぶらしい。

                                                             
 

三門の後ろには本堂である。
東福寺のお堂は、どこも内部を拝観できないのが残念。
そのせいか、大きな寺院にもかかわらず拝観者は少なかった。

東福寺自体は、鎌倉時代に都の権力者、藤原道家が20年かけて建立した巨大寺院。
動機が「京都でイチバン大きな寺を作りたい」、 「東大寺と興福寺から一字ずつ取って東福寺」というのは本当らしい。。

                                                             

更にその後ろ側には、方丈と庫裡がある。
東福寺で楽しみにしていたものの中に、ここの方丈の庭園があった。

方丈庭園の歴史は浅く戦前のもので、昭和を代表する作庭家である重森三玲の作。
方丈の四方に8つのテーマの庭があることから、「八相の庭」と呼ばれている。

・・・が、なんと正月三が日は拝観はお休み中だった。。。無念。
東寺の五重塔と引き換えか。。

 
     
   

本堂から一番奥の開山堂へは渡り廊下で繋がっている。その途中に、先程遠目に見た通天橋があるのだ。

ここからが拝観有料ゾーン。方丈庭園はやってなかったけど、通天橋は入ることができた。

渡り廊下で渓谷を跨ぐ。
展望台のような張り出し部分からの眺め。ここから見ても向こうから眺めても、(季節さえ選べば)絵になるポイントだ。

       
 

開山堂は、それまでの壮大さとは打って変わって、拍子抜けするほどこじんまりとした佇まいを見せていた。

開山堂を正面に、回廊で囲まれた前庭には、市松模様の枯山水庭園が広がる。

側面の建物の広縁で、しばし休憩。冬の陽の光がさんさんと降り注いで気持ちがいい。

人が増えてくるまで腰を下ろして休んだ後、来た道を引き返すようにして、東福寺を後にした。

       
             

再び東福寺バス停まで戻って、市バスに乗る。東大路を北上して東山、知恩院前で下車。

法然上人の草庵跡に開けた知恩院。浄土宗の総本山だ。

その玄関口とも言える三門は、高さ24m、桁行き27mで、木造門としては日本どころか世界最大規模とか。

東福寺と同じ二重構造の屋根を持つが、屋根下の肘木が連続する意匠となる。桃山文化の名残を垣間見ることのできる、17世紀の建造物だ。

 

三門を潜って石段を上り詰めると、御影堂だ。
本堂的な役割の建物で、中では多くの僧侶が読経している。

その裏手にも大きな建物があったが、保存改修工事中で拝観することはできなかった。

知恩院と言えば、「鶯張りの廊下」等に代表される七不思議。
とりあえず、御影堂の軒裏の「忘れ傘」だけ確認しておく。

知恩院はさっきと打って変わってとにかく人が多かった。

       

知恩院を後にして、青蓮院の前を通って三条通へ徒歩で向かう。三条通からは岡崎通へ。東山の風情ある路地をそぞろ歩くのがまたいいのだ。

                       
 
京都市動物園の南にある山県有朋の別荘「無鄰菴」は是非見学したいところだったが、三が日ということでこちらも休館中だった。残念。
     

無鄰菴の先は南禅寺だが、その前に昼時を迎えていた。
ツーリング時は昼を食さないことが多いが、さすがにこう歩き続けていると、腹の虫の抑えも利かなくなる。

南禅寺と言えば湯豆腐!という勝手な思い込みから(昨日の龍安寺の件も手伝って)、参道の湯豆腐店で腹ごしらえすることに。

「順正」という店が良さそうだったので入ろうとしたが、客引きをしている割には順番待ちという状態。
応対はあまり良い感じはしなかったが、まぁ味で判断しようと順番待ちをすることに。

     
     
湯豆腐待ちの間に、多少でも南禅寺を拝観しておこうと境内へ。
立ちはだかるのは南禅寺の三門。たくましい木割りに支えられる二重の屋根。東福寺と同様、禅宗で最も格式が高いとされる形式だが、南禅寺はその重厚感がケタ違いに思える。
 
直立した極太の柱は、存在感たっぷり。
土台となる束石の形状も、質素ながらも洗練されたデザインだ。
     
   
       
三門の上層階には、有料で上がることができる。
歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と見得を切るシーンで有名な舞台。
現在ここから眺める京都の街はこんなカンジ↓
   
 
       
 

三門を楽しんだ後、順正に戻ってみると、丁度名前を呼ばれているところだった。

料亭っぽい所だったので個室に案内されると思いきや、大広間にテーブルが並べられた場所に通され、騒々しい雰囲気の中、コース限定で頂くことを強要されることに。。。

いろいろ・・・な店ではあったが、肝心の湯豆腐はすこぶる美味でボリュームたっぷり。京都へ来た目的のひとつ、湯豆腐を賞味することが達成できて満足。

             

再び南禅寺境内へと戻る。

山門をくぐって法堂を拝み、更にその右手奥へと行くと、琵琶湖疎水の遺構がある。
明治時代に、京都市内に琵琶湖の水を運ぶために造築された水路閣。レンガ造のアーチの連続がリズミカル。

こういった近代化遺産が南禅寺という古刹の境内に存在しているのが面白い。そしてそれが決してミスマッチではなく、むしろお互いが醸し出す空間を引き立て合っているような、そんな効果さえ感じることができるのだ。

古き文化の中に積極的に文明を織り込んでいくのは、京都の風土と言っていい。
路面電車等の新しい文明をいち早く取り込んでいったのは、他ならぬ京都の街なのだから。

                     
     
 
           
南禅寺方丈は、有料で内部を拝観することができた。
三門と琵琶湖疎水、それと湯豆腐(笑)というイメージだったので、方丈建築並びに方丈庭園はノーマークだった。
   
           
     
                                   
拝観料を支払って、広い床の廊下を行くと、途中にモダンな和室が目に入った。
均整の取れたプロポーションの開口部に、テーブルセットが絶妙のバランスで配されている。
恐ろしく緊張感のある空間で、まるで絵画のような、パーフェクトな構図に舌を巻く。
先程の琵琶湖疎水のような文明折衷が、こんな所でも楽しめたのだった。
                                                                 
                                                                 

禅寺の方丈の庭園は、枯山水だ。
敷き詰められた砂利とその模様、配された名石の数々、わずかに地表を覆う苔と名木。そのすべてが計算づくで構成されており、禅の世界や風景を抽象的に表現している。

南禅寺の方丈庭園は、寺院の建物が庭園の借景として利用されているところが特徴的だと感じた。そういった部分まで全て計画のうちなのである。作庭者が込めた思い。それを正確に全て把握することは到底できないが、禅宗文化が生み出した精神の空間で何かを感じ取ることができる。
常に何かを感じる感性をより一層研ぎすましたいがために、京の庭を歩くのだ。

この庭園の作者は、江戸時代初期の大名、小堀遠州といわれている。
小堀遠州は江戸幕府の作事奉行(いわば建築大臣)としてその手腕をふるった人物であり、当時の様々な公共建築や庭園を手がけたヒト。
茶人でもあり、禅、茶室、庭園という切っても切れない関係から、この時代の建築や庭園を理解する上でのキーマンとも言える。

                                                                 
                                                                 

南禅寺からは、哲学の道を歩いてみた。
花や紅葉の季節であれば、それは素晴らしい景色の中を散策できそうだが、真冬ではあいにくの景色にしかなり得ないようだ。その上に歩いている人の数の多いこと。賑やか過ぎて、思案に耽るような環境ではないのだ。。

疎水に沿った小さな路の魅力の代わりに、時折現れる美観地区の規制に従いつつも目を惹くデザインの住宅を楽しみながら銀閣寺まで歩いた。

                                                                 
                                                                 
  銀閣寺の参道はご覧の人混み。
今回の京都の旅では、訪れた経験のあるメジャーどころは敢えて避けようという方針だったが、銀閣はなぜか足が向いてしまった。
混雑しているとは言え、日本建築の過渡期が垣間見られるこの寺は外すべきではないような気がしたのだ。
                                   
     
                                   

総門前に辿り着いた。
慈照寺というのが正式名称で、銀閣というのはこの寺の観音殿の通称だ。
鹿苑寺金閣があまりに有名で、その存在に大きな影響を受けつつ造営されたので、対を成すような通称が生まれたことは想像に難くない。

   
                                                                 
 

その銀閣。
室町幕府8代征夷大将軍足利義政が築いた、元来は山荘である。

義政が、政治の世界に嫌気が差して隠居生活を送ろうと造営したが、その完成を見ずに死去し、そのまま菩提寺として慈照寺に改められたという経緯がある。

キラビやかな金閣の北山文化に対して、こちらは質素なワビサビの世界。いわゆる東山文化の確立であり、その後の禅と茶の文化に繋がっていく流れを読み取ることができる。

建物内部に入ることはできないが、正方形に近い平面の2階建構造で、下層に書院造の面影を見て取れる。
上層の窓の意匠は、どこか大陸風。屋根の上には鳳凰が鎮座していて、改めて眺めてみると、いかにも美しいプロポーションとは言い難い存在である。

将軍の山荘の割には質素で侘しい。
しかし、この東山殿が発端となる東山文化の趣は、その後の日本の建築文化を方向付けるメジャー路線となっていく。
そういった意味では、金閣と対を成すなんていう解釈なんかどうでもいいくらいにエポックメイキングな存在であり、そういう視点で観察するなら混んでても見る価値有りと言えるだろう。

       

慈照寺にはもうひとつ重要な建築物があって、それがこの東求堂。
義政公の持仏堂だが、それよりも最古の書院造の建物として知られている。

内部には3室あり、その中の四畳半の書斎「同仁斎」に設けられている違い棚、付け書院は、現存するもので最古のもの。
現在でもちょっとした座敷には設けられている定型の造作である。その源流が、東求堂同仁斎なのだ。

 
残念ながら内覧はできない。
四畳半の畳の間に床の間という日本の住宅の原型だけに、是非この目で確認してみたいものだったが。。
特別公開の機会が年2回あるようなので、その時狙って是非訪れてみたいな。
 
・・・・・・
 
銀閣を後にしたの頃には、既に16時を回っていた。
寺院の拝観時間は大体どこも16時半とか17時まで。これから他の所に行ってもゆっくり見れそうにもないので、本日の見学はここまでにした。

とりあえずバスに乗って東山方面に戻る。
夕刻、しかも繁華街に向かうバスとあって、その混雑具合といったらハンパではなかった。
普段満員電車に揺られている身ながら、満員バスはその何倍もキツイ。あのモサーーっとした加速感がダメなのかなぁ。物心付いた時からバスだけは本当ニガテなのである。

満員な上に道路は大渋滞。
祇園バス停で降りてホッと一息。夕刻の東大路は本当に動かない。危険だ。
     
 

祇園で降りたのは考えあってのことではなく、何となく、だった。

ただそれも、祇園という京を代表する街並みに、無意識のうちに引き寄せられていたからなのかもしれない。

四条通から祇園に入って街並みを散策する。
京都でもっともお上品な街は、いつ来ても微妙にその表情を変えて楽しませてくれる。

     
     
夕刻の薄暗い空気感の中、しばしの散策。
大きな観光用の通りも華やかでいいけれど、もっと好きなのは一歩入った細い路地空間だ。
丁度家々の明かりが灯り始めるくらいの時刻、微妙な光の陰影が折り重なる空間を鑑賞。
街並みを形成するスケール感とディテールを五感で感じるのだ。
     
     
祇園散策後は、人混みの四条通を河原町から烏丸方面へ。
通りに面する店を散策しながら、昨日再訪を決心していた古今烏丸ビルへと向かう。
           

古今烏丸にてどうしても訪れたかった店とは、「唐長」という京唐紙の店である。
板木に泥絵の具を置いて、その上に和紙を乗せて職人の手加減で刷る京唐紙は、桂離宮にも使われている伝統建材。

現在、この京唐紙を受け継ぐのは、日本全国でこの唐長のみ。創業400年に渡って、当時の板木を用いて当時の製法で唐紙を生み出し続ける老舗なのだ。
その出先の直営ショップがこんな所にあるなんてオドロキ。年甲斐もなくはしゃいでしまった。

 
           

店内にはポストカードサイズの唐紙をメインに陳列されていた。
さすが1枚1枚手作りなだけあって、1種類のカードは限定20枚。加えて想像以上に結構なお値段。。

吟味に吟味を重ねて、鮮やかなブルーに雲柄の模様が刷られたカードを1枚だけ購入。本当は雲母の煌めき鮮やかなディスプレイ用の唐紙が欲しかったけど、それはいつか自分の空間が持てたときに改めて買いに来よう。。

           
1日目 / 3日目
           
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