風情豊かなゲストハウスの一室で夜を明かし、再び島風に吹かれる旅路をゆく。
メジャーな幹線を避け、田畑を分け入っていく。地図は頼りにならない。
網目のように張り巡らされている道端に、時折現れる案内板が唯一の道標だ。
男岳の山頂近くにある、同名の神社に行き着く。
参道からの絶景を拝むことができるのは、秘境に分け入る者のみに限られる。
山を降りて、再び海岸線へ。
芦辺という島内では大きな町の港を迂回し、左京鼻という岬を巡る道をゆく。
海に向かって祈りを捧げる「はらほげ地蔵」は、誰がいつ何のために造ったのか、わかっていないという。
一体ごとに異なる六体のお地蔵様は、満潮になれば海水に没してしまう。
島と海に関わる者の安全と幸せを、海にその身を捧げながら、祈り続けているかのようだ。
壱岐の海を守り続けているスポットがもうひとつ、お地蔵様の居る港のすぐ近くにあった。
小島神社と呼ばれ、内海に浮かぶ小さな島全体が神域となっている。
普段は海中の小島だが、潮が引くと海が割れ、島に通じる道が現れる。
北フランスの有名なお城を彷彿とさせる、神秘的な領域。
潮水が染み込んだ海底の道が、神域に続く参道だ。
足元を気にしつつ岩場を島の裏側まで行くと、社があった。
簡素な社だが、厳かな空気が流れている。
参拝すると、それまで薄雲に覆われていた島に、陽光が差した。
直接参拝できるのは、干潮時の一日二回。恋愛成就のご利益があるという。
小島神社から細い山中の道を辿って南下する。
今回の島旅随一のスペシャルステージ。アップダウンを繰り返す狭小な道に気を取られ、目的とした場所を通り過ぎてしまった。
行き過ぎた道をやや戻って訪れたのは、市営の博物館。
弥生時代に大陸との交易の窓口として繁栄した壱岐の歴史を知る体験型ミュージアム。
「魏志倭人伝」に記載があり、壱岐の島名の由来ともなった「一支国(いきこく)」博物館というのが正式な施設名称だ。
展示内容は、ジオラマを中心として、古代の壱岐がどのような様子であったかを丁寧に紹介しており、壱岐随一の観光スポットとして人気があるのも頷ける。
大陸との交易がもっとも盛んだった二千年前の弥生時代に栄えた「原の辻」遺跡を見下ろす丘にある。
展望台から見下ろす島の平野に、大陸と交わる弥生文化の栄枯のロマンが重なって見える。
歴史と文化の移り変わりを体感することは、旅の醍醐味として大切な要素のひとつとして捉えている。
博物館で多くの時間を過ごし、郷ノ浦にいったん立ち寄った後、再び島の東端へ。
博物館の東側の海岸には、美しい砂浜を湛える海辺がいくつもある。
印通寺港を経由し、島南端の海豚鼻へ。
険しい岬の道路のドライビングを楽しんでいると、またしても目的地を見失っていた。
引き返してでも訪れたい、地形の先端。
S2000を道端に停め、草木が生い茂る岬への道を歩いていく。
島の南端ということは、九州本土の方角を遠方に眺める方角になる。
本土と島々の隙間を抜ける潮の流れは速く、かつてこの海を往来した人々の苦難を垣間見る。
壱岐と言えば、鎌倉時代の二度に渡る元寇の舞台にもなった場所。
地理的に真っ先に元軍との戦になった壱岐の守護は、奮闘虚しく全滅。本土への上陸を許すことになるのだが、元軍は二度とも自然の脅威によって壊滅。
二度までも神風が吹いたことは誰もが知る歴史だが、その脅威にさらされ、荒野に帰した島があったことも忘れてはならない。
島の南側の海岸線を時計回りに周回。郷ノ浦港に行き着く前に、島中心部の岳の辻展望台へと寄り道する。
夕刻が近づく島の最後の景色。
古代の息吹と現代社会の生活が降り混ざった独特の景観を、瞼に焼き付ける。
岳の辻を下りて、R382を使って郷ノ浦の町へ。
商業的な中心部にあったゲストハウスのような施設の一角にあるハンバーガー店で、腹ごしらえをする。
外国人観光客向けのボリュームたっぷりのハンバーガー。
どういった理由かは不明だが、島の規模に対する外国人の旅行者の数は多い。
郷ノ浦港を夕刻に出港するフェリーに、予定通り乗船した。
博多港到着は、20時頃。
この日は土曜日ということもあり、博多、天神とも宿は高額で、市街地から外れた埋立地の中にあるホテルにチェックイン。
ここでも多くの外国人観光客と遭遇することになったが、既に島で空腹を満たしていたので、部屋飲みで島旅の余韻に浸る。
2日間の壱岐の旅。
小さな島には、多くの人々の生業と、古代の息吹が共存していた。
島であるがゆえに凝縮された文化と、二つと同じものはない独特の地形が、車旅の旅情を掻き立てる。
また来年も、どこかの島に走りに行く。
新しい発見と、感動を求めて。